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日本企業の強さは狂ったモノサシによるものかもしれない?!

企業会計や簿記ってネーミングを聞くと、「経理担当者が電卓叩いて・・・」とそんなイメージをお持ちではないでしょうか?

実は、企業会計のうち財務会計は「会計基準」というルールがあり、そのルールは「経済のルール」と言えるものです。そして、「ルールを握りものが支配する」の言葉通り、まさしく、「会計基準」のルール作りは、世界において経済のルールを支配することに繋がるのです。

今回は、そんな「会計基準」というルール作りにまつわる話です。

 

【ジャパン・アズ・ナンバーワン/狂ったモノサシ】

日本企業は80年代、世界でも有数の競争力をもっていました。しかし、バブル崩壊から今日にかけその競争力は急速に減退していっています。ここで、日本企業が強く見えたのはそもそもモノサシたる会計基準(会計処理をどうするのかを定める会計法規)が狂っていたのではないか―そんな声が国際社会から沸き上がりました。

そこで、欧州と米国を中心に世界統一のモノサシとしての会計基準を作ろうという動きが93年あたりからでてきました。これが会計基準の「グローバル・スタンダード」といわれるものです。

「賛成13、反対1」

1993年11月、ノルウェーの首都オスロで開かれた「米、英、加、豪、独、仏、日」等の参加する国際会計基準委員会の定例理事会で、日本は世界中の企業の経営成績を比較できるように「会計基準」を世界的に統合しようというプロジェクトに唯一反対しました。

日本の会計基準が先進国から遅れているのは歴然としていた。にもかかわらず、日本代表は反対票を投じたのです。

あたかも第二次大戦直前、国際連盟を脱退したときの松岡洋右のように・・・。

この一票が、日本経済を奈落の底に落とすことになると考えた日本人はおそらくこのとき誰もいなかった。

たかだか、会計基準じゃないかと。

けれども、この日を境に日本は会計基準の国際標準化を巡る激しい国際競争に乗り遅れる。それは、明らかに形を変えた経済社会に

おける「戦争」の始まりでした。

 

【国際化に唯一反対した日本】

「反対は日本だけですか」―。1993年11月。ノルウェーの首都オスロにあるグランドホテルにおいて、国際会計基準委員会の定例理事会が開かれていました。このオスロ会議の最大のテーマは、「比較可能性プロジェクト」と名付けられた議案の評決であり、世界中の企業の経営成績を比較できるように、決算書作りのルールである「会計基準」を世界的に統合しようというのがその狙いでした。

「ではしばらく休憩にしたいと思います。日本代表はもう一度、相談して下さい。」

この時の定例理事会の議長役は、白鳥栄一という日本を代表する国際派の公認会計士であり、彼は議長としてあえて「可決」を宣言せず挙手のやり直しを促したのです.「日本だけが世界の流れに反対する形だけは、なんとしても避けたかった。」

白鳥は後にこう述懐しています。

しかし、賛成13、反対1― 結局、日本代表の手は最後まで挙がらなかったのです。

当時の日本の会計の原則は「取得原価主義」であり、これは企業が保有する資産は、取得した時点の価格が帳簿価格として貸借対照表に記載するという考え方です。この取得原価主義のもとでは、企業が持つ土地や株式などの市場価格(時価)と帳簿価格の差は「含み」として帳簿には表れないことになります。

一方、国際会計基準はこうした「含み」を一切排除する「時価主義」の色彩を強めていました。日本企業が古くから持つ土地や株式には膨大な「含み益」があり、日本企業の強さの源泉とみなされていましたが、その半面、 バブル期に取得した土地や株式には、バブル崩壊で「含み損」が生じており、「時価主義」になればこうした含み益も含み損も一気に表面化することになります。いずれにせよ経営に大きな影響を与えかねない会計基準の国際化には反対、というのが経団連をはじめ当時の産業界の主張だったのです。

オスロ会議に日本代表として参加し、反対票を投じた小野公認会計士は、当時を振り返って次のように語っています。

「日本の会計基準が先進国から遅れているのは歴然としていた。グローバルな流れに背を向け、反対するには正直言って勇気がいった」

「まるで国際連盟脱退をする松岡洋右のようだ」

このことにより、日本はスタンダードを巡る激しい国際的な「戦争」に巻き込まれていくことになります。しかも最初から「敗戦」がみえていた戦争の。

 

【法律ではない会計基準を官が管理してきたことの不幸】

会計基準を巡るヘゲモニー争いは、日本企業の収益や行動に重大な影響を与える「国益」を左右する問題だ―。

そう気づいていた人物が当時の日本にほとんどいなかったのが国際会計基準戦争「敗戦」の1つの原因でした。

とくに明治以来、1990年代後半まで日本の枠組みを決定する権能を握ってきた「官僚」の中に、問題の本質を理解しようとする人はわずかでした。

その理由は、会計基準自体は「法律ではない」からなのです。

官僚の権力の源泉は「法律」です。会計基準を彼らの関心の中に留めるには、「法律として扱う」以外にありません。

そこで、当時の大蔵官僚は、戦後一貫して会計基準を、あたかも企業行動を規定する「法律」のように運用してきました。

それが結局、会計問題の官僚支配を招き、結果、大きな経済的被害を日本にもたらしたのでした。

会計基準は法律ではなく、スポーツのルールと同じようなものです。

スポーツのルールは本来、ゲームとしてのスポーツをいかに面白くするか、という視点で定められています。

これはビジネスのルールである会計基準も同様であり、ビジネスのルールがフェアであることを保つためには、本来ルールは常に見直される必要があります。

日本の官僚は一度作った「ルール」はむやみに変えるべきではないという考え方にたっていますので、会計基準も日本の官僚の下では「法律」のように扱われ、ひとたび決まれば25年間見直さない、という基準がいくつもできたのでした。

これにより、実体に合わない会計が実務では行なわれ、最終的に国際的なルール変更を巡る争いで、発言権を失う結果となったのです。。

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